化学魔の還元

理学部編1.刺激臭

  • 摂津北山高校理学部
  • 第1話「刺激臭」
  • 作:時岡結絃(ときおか ゆづる)
  • mail: yudzuru.tokioka.0824@gmail.com
  • twitter:@kagakuma

4月7日

特別教室棟、化学教室。あの先輩がそこにいる。先輩が卒業して一年。恵美はこの日をずっと待っていた。何の約束もしていないから、恵美のことを待っているなんていうことはないだろう。もしかしたらもう忘れてしまっているかもしれない。でも、それでもいいと思っていた。

中学時代、一緒にいる時間は昼休みの30分だけだった。短かったけど、貴重な時間だった。先輩は広い世界を教えてくれた。だからまたもう一度会ったら、先輩が勉強しているところを横で眺めて、肩越しに広い世界を見せてもらおうと思う。そして、いつかは肩を並べたい。いつかは……。

高校生活初日。入学式もつつがなく終わり、簡単なホームルームが済むとすぐに放課になった。快晴の少し肌寒い空が広がっている中、帰り道はひたすらに騒がしく感じる。下駄箱から正門へ向かう広い通りは、部員を獲得しようと懸命な先輩と、熱くも甘い言葉に絡まれて断りきれない新入生達で混み合っていた。一斉に帰ろうとする新入生の流れから外れた恵美は、勧誘合戦を二階の廊下窓から見下ろしてから、ゆらゆらと歩み始めた。そんなに広い校舎ではないはずなのだが、一人で迷い歩いていると目的地まで遠いように感じられた。でも今まで感じていた距離から考えれば、もうほんの少しのところまで来ているのは確かだ。

誰もいない廊下を一人歩く。晴れて恵美は高校生に、摂津北山高校の生徒になることができた。セーラー服に身を包み、一年前よりも長くした髪を下ろした。中学生の頃より、少しは自分も成長している、はずだと思う。背も伸びたし、胸も膨らんだような気がする。私を見た先輩の反応を少し想像しただけで頬が染まるのを感じた。 一年ぶりの再会に備え、教室の前でコンパクトを取り出して前髪を整えた。よし、と心の中で頷いて、ゆっくりと教室の扉を開けた。しかし、そこには誰もいなかった。代わりに、放置されたいくつかのフラスコと、どこかで嗅いだことのあるようなツンと鼻を刺す香りだけがあった。この香り、というか異臭にはピンとくるものがあった。確か、刺激臭という名前がついていた記憶がある。そんなことよりも、この異臭が待ちに待った感動の再会を台無しにしてしまうような気がして、心底がっかりした。化学教室の入り口にいつまでいても意味がないのではないか。帰って明日出直そうかと思ったその時、教室奥にあるドアが開いた。

「あれ、いらっしゃい。見学かな?」
短髪の爽やかな男子生徒が歓迎の言葉を述べた。顔の甘さも相まって何となくサッカー部員のような印象を受けた。180cmは優にありそうなのに体の線が細く、身長のわりに威圧感を覚えなかった。さっき教室で聞いた服装規定を完璧に守って、詰襟は上まで留めてフックまでかけている。学年章は紺色、三年生らしい。
「すみません、理学部って、この教室であってますか?」
「そうだよ。ここは理学部の部室……ではないけど、よく使っている化学教室」
サッカー部風の先輩が、持っていた追加のフラスコを机に並べながら答えた。
「この部活に片岡さんっていらっしゃいますか?」
「ああ、片岡くんなら今薬品倉庫だよ」
目的の人物はとりあえず存在するらしいとわかり、ほっとした。それなら少し待たせてもらおうかとも思ったが、このほのかな悪臭の中で待つのは躊躇われた。化学教室の入り口で入ろうか入るまいかと迷っていると、その様子が伝わったのか先輩がどうぞと言って椅子を勧めてくれた。

「彼ならすぐに帰ってくると思うから、ここで待ってたらいいよ。今から実験もするし、よかったら見ていってよ」
「ありがとうございます」
と言ったまま一歩を踏み出す気になれない。
「あの……換気扇回ってますか?」
「換気扇? ああ、また回し忘れた」
これあんまり意味ないんだよね、と言いながら、先輩が教室端にぶら下がっている紐をカチカチと引いて換気扇を回した。もちろん正常に動いたとしても直ちに効果が出るものではない。
「あんまり気分のいいものではないけど、すぐ慣れると思うから。実際、俺はもう慣れてしまってて何も感じない」
そうですか。と露骨にため息をつくのはさすがに控え、再会を感動的に演出するのは諦めて実験器具の前に座った。

目の前にフラスコが三つ並んでいる。先ほどの先輩が、金属製の支柱とガスバーナーを机に置いてから向かいの椅子に座った。

「申し遅れましたが、理学部長の村上です」
彼はサッカー部ではなく、理学部の部長だった。その自己紹介には引っかかるものがあったが。
「佐々木です。理学部長って、なんだか大学教授みたいですね」
それを聞くと理学部長はあははと明るく笑って答えた。
「もちろんわざとそう呼ばれているんだよ。大学の理学部で一番偉い人みたいに聞こえるでしょ?」
理学部長は、訊かれてもいないのに肩書の由来について語り始めた。 「この高校、『ほうがくぶ』ってのがあるのは知ってるよね?」
「はい。お琴が上手で全国大会常連だとか」
「そうそれ。それがさ、なんかこう弁護士を目指す方の『法学部』に聞こえるよね」
「ああ!はい、最初そっちだと思いました」
摂津北山高校の新入生はほとんどが邦楽部の存在を知っているはずだ。入学説明会の時、説明が始まる前にその腕前を披露してくれたからである。恵美もそこで存在を知った。その演奏の前に、「次は『ほうがくぶ』による演奏です」とアナウンスされたために、頭の中で誤変換を起こした人が多数いたようで、会場にパラパラと疑問符が浮かぶ音がした。正しくは「邦楽部」と書くらしいということは、パンフレットの部活実績欄を読んで知った。
「そうそう。それで昔に理科系の部活を作ることになった生徒と先生が、冗談で『法学部があるんだから理学部があってもいいだろう』って言いだしたらしくって、こういう名前になった」
「そういうことだったんですね」
冗談みたいな名前だが、本当に冗談で作られてそのまま定着してしまうというのは自由を感じる。
「それだと、工学的なことをしたい人は理学部で活動できるんですか?」
「その辺はあんまり区別してないよ。うちは実験もするし、工作もするし、なんなら山にだって登る。みんなでスキー場に行ったり、キャンプしたりもね」
「結構幅広いんですね」
「いろんな人がいろんな目的で在籍してるから、キャンプの時だけ現れる人とかもいるよ。佐々木さんも、できれば毎日顔をだしてくれると僕らは嬉しいけど、自分のしたいことをやれることが一番大事だから」
もう恵美がここに入部することは決まっているかのような口ぶりで一通り話し終わると、「ところで」と前置きをしてからニッと笑ってこう切り出した。
「片岡秀作に用事?後輩とか?」
「そうといえば、そうですね」
はい、と素直にそう答えればよかったのだが、正直に答えるのはなんとなく気恥ずかしさを覚えた。
「あ、もちろんこの部活の見学がメインなんですけど」
奥歯に物が挟まったような説明に、部長が少し首を傾げた。
「登校初日から見学にくるなんて熱心すぎるよ。片岡とは何か浅からぬ関係があるの?実は昔の恋人とか?」
「いえいえいえいえ、そんなことはないです。全然、全く」
恵美は両手を振って全身で否定した。せざるを得ない。 「そう?隠すところが怪しいなあ」
この人見た目に反して割とズケズケ来る方なんだな、顔はかっこいいのにもったいない。そう思いつつ、恵美の心の中で勝手に評価が下がった。 「ただの後輩ですよ。話すと長くなりますけど……」
「えー?やっぱりなんかあるんじゃんね」
別に語るにやぶさかではないのだが、自分でも片岡先輩との関係についてあんまり正確に説明できる自信がない。確かに中学生の頃はよく話したとは思うのだけど、自分が一方的に眺めていただけに等しい。そうすると、片岡先輩からみて自分がどう映っていたかなんて知る由もない訳で。

そんな風に返答に困っていると、再び教室奥のドアが開き、プラスティックの瓶を持った生徒が現れた。170cmくらいの中肉中背、髪型はぼさっとしていて、寝癖だけは直しましたという感じだ。その優しい顔立ちに、恵美は見覚えがあった。
「片岡先輩!」
思わず呼びかけてしまっていた。心拍数が上がっていくのを感じながら、先輩に駆け寄った。片岡先輩はハッとこちらを向いて、そして答えに困るような質問をされた時にする懐かしい苦笑いを浮かべた。
「えーっと、中学生の頃に会ったことある?」
「そうです。図書当番で。佐々木恵美です」
少し考えた後、先輩の顔がパッと明るくなった。
「ああ!佐々木さんか。覚えてるよ。髪が長くなったから一瞬わからなかった」
そういうと、先輩は優しい笑顔を見せた。すぐには自分のことだとわからなかったようだが、確かに髪型も制服も変わってしまったので仕方ないかもしれない。とりあえず覚えておいてくれて本当によかった。 突然始まった同窓会に、ゆっくりと近づいてきた部長が割り込もうとしてくる。
「同中?」
「そうです。話すと長くなりますが、私が図書当番の時にいろんなことを教えてもらってて」
恵美はとりあえずミニマムな説明で済ませた。嘘は吐いていない。
「最初からそういえばいいのに。教えてもらうって、本の整理とか?」
「いえ、化学のこととか、物理とか数学とか」
「お前中学生の頃からそんなことしてたのか。また難しい本読んでたんだろう」
部長が笑いながら片岡先輩の肩を強く叩いた。
「そんなに難しくないですよ。あの頃は教養課程くらいのもので」
「私には十分難しかったです」
思い返すと、先輩は本当に中学生らしからぬ本を読んでいた。有機化学、量子力学、線形代数学……。いつか同じ目線で話がしたいと思って以来、恵美自身も自力で追いつこうとはした。それでも、何を話していたかは明確に思い出せるのに、それが本当に何を意味しているのかは結局わからなかった。
「そうかな、割と僕の説明を理解してたような気がしてたんだけど」
片岡先輩が頭の後ろを掻きながら言った。困った時の癖も変わっていないらしい。恵美は少し嬉しくなった。 「この部活でも難しい本読んでるんですか?」
「難しい本っていうほどのものは読んでないつもりだよ。最近は面白い実験を探して過ごしてる」
「時々塾講師の真似事をするんだよな」
部長が横入りしてきた。
「別に塾講師になりたいわけじゃないですよ。大久保先生がいないときに代わりに質問捌いてるだけです」
「割と評判いいらしいんだよな。こいつ教え方うまいからさ。佐々木さんが教えてもらってた頃からそうだったの?」
「そうですね、中学生の時は、私が普通に受験の質問とかした時は解説うまいなって思ってました。でも片岡先輩の趣味について話してた時はさっぱりでした」
ある時期から、図書室で見かける片岡先輩に定期的に話しかけていたのだが、いつの間にか片岡先輩が一方的に話していて、そのうち昼休みが終わってしまうことが多かった。どんな本なんですかと話を振ると、熱心に解説をしてくれた。その熱心な口ぶりを聴くために話しかけていたと言っても過言ではない。そのときの話は理解できなかったなりにだいたい頭に入っている。
不意に先輩の口癖を思い出した。「わからないってことは、新しい世界に足を踏み入れたってことなんだよ。怖がることじゃない」それからわからないことを少しずつ先輩に訊いて、本当に少しずつ進んでいく時間がとても楽しかった。 でもそんな思い出は今は心にしまっておくことにした。何だか恥ずかしい。先輩と同じくらい賢い人になりたいとは思うけれども、きっとそれからどうこうしたいとは自分でも思っていないんだろう。けれど、ただそれだけのはずなのに、先輩に対する自分の気持ちは誰にも話したくないと考えている。自分でも自分の心がよくわかっていないからなおさらだ。

「そうそう、タンアン切れてたんで新しいの開封する許可もらってきました」
「OKOK。それで遅れたのか。じゃあ予備実験を始めよう」
「予備実験ですか?」
恵美が部長に訊き返した。
「そうそう、明日の放課後にやる演示実験をテストしようと思って。佐々木さんも見ていけばいいよ」
「はい。じゃあ見ていきますね」
待ち望んでいた感動の再会もそこそこに、三人で実験器具一式の前に移動した。
「どんな実験なんですか?」
「そうだね。見てのお楽しみって感じだけど、色が変わって見た目にも面白い実験だよ」
目の前に三つのフラスコと、ガスバーナー、マッチ箱、金属製の支柱がある。あとプラスティック製の柔らかそうなチューブがいくつか転がっている。三つのフラスコにはゴム栓がなされていて、そのゴム栓には二つの長短ある管が刺さっていた。二つの管は同じ長さだけ外に顔を出していて、曲げられるチューブと接続することができるようだ。反対にフラスコ内部に伸びている方の長さは二つで違っていて、一方はフラスコの底にまで届くほど長く、もう一方はほんの少しの長さしかない。
部長が曲がる透明なチューブで三つのフラスコを繋げた。その間に片岡先輩は試験管を取り出し、試験管の口に同様のゴム栓をはめた。そして、口が下に向くように支柱から伸びたハサミで試験管を固定し、試験管の底にバーナーの火がちょうど当たるくらいの位置になるように試験管の高さを合わせた。準備が整うと試験管のゴム栓から空のフラスコにチューブで接続した。
都合、試験管からひとつのフラスコに管が通り、そのフラスコからまた別のフラスコへ繋がり、さらにそこから最後のフラスコに繋がっているという具合である。
「じゃあ新しい学部生に問題を出そう。今からやる実験の原理を当ててみて」
部長はそういうと棚から小瓶を取り出した。二つ目と三つ目のフラスコの栓を開け、50cc程度の水道水を入れたのちに少量の薬品をポタリと落とした。二つのフラスコのなかで、水が淡い緑色に染まっていく。 「この薬品がなんなのかは中学校の理科の知識でわかると思う。で、秀作が持ってきたこっちの薬品だけど……文字通り鼻を刺すような刺激臭だから気をつけて」
片岡先輩が、手に持っていた新品のプラスチック瓶を開封し、蓋を開けた。なるべく顔を近づけないように気をつけているようだったが、
「うっ!」
と大きな声を出してすぐ蓋をしめ、せき込んだ。ダメだったらしい。
「やっぱ慣れないなこれ……本当に鼻に針が刺さったみたいだ」
「気をつけろよー」
「次は大丈夫だと思います」
そういうと先輩はまたゆっくりと蓋を開けて、スプーンで適当な量の白い試薬をとりだして試験管に入れ、チューブ付きゴム栓をした。
「っぷはーつらい」
素早くプラスティック瓶の蓋を締めた。息を止めてやり過ごしたようだ。さっきから教室に漂っていた匂いはこれだったのか。
「そんなに臭いんですか?ちょっと気になります」
「いやこれは臭いとかじゃない。鼻を殺しにきてる。そういう好奇心は発揮しないほうがいい」
片岡先輩が真面目な顔で恵美をたしなめた。
「本当に気になるなら終わってから人のいるところで嗅いでみてね。ひとりでやると最悪死ぬので。じゃあ実験を始めるよ」
と、部長が宣言して、実験が始まった。
ガスバーナーにガスを通してからマッチに火をつけ、バーナーに点火した。試験管の底にある白い試薬が加熱されている。しばらく加熱すると、緑色の水の入ったフラスコに沈んだ長いチューブの先からポコポコと泡が立ち始めた。白い試薬は加熱されるごとに少しずつなくなっていき、試験管の口には水滴がつき始めた。ふとみると、二番目のフラスコはいつのまにか青色になっていた。最後のフラスコは徐々に黄色へと変化していった。
「実験成功、かな?」
部長がガスバーナーを止めた。フラスコの水は最初緑色だったはずなのに、一つの試薬を加熱すると別の色に変わってしまった。しかも別々の色に。確かに不思議な実験だ。
「よし、じゃあこの実験の原理を当ててみて。なんで二つのフラスコが別々の色になったのか」
恵美に問題が出された。なんとなくアタリはついているが、確信が持てるほどではない。ただ、高校に入学したての人に訊くことだから、中学校の理科の知識で答えられるだろうと考えた。
「多分、最初にフラスコにいれた薬品はBTB溶液だと思うんですけど、合ってますか?」
「正解。どうして?」
部長が畳み掛けてくる。入試はもうとっくに終わっているのに、口頭試問を受けているようだなと思った。
「最初は緑色で、それが青とか黄色とかに変化するのはそれしか知らないので」
「そうだね。指示薬にはいろいろあるけど、この色の変化をするのはこれしかないはず」
そういうと部長は、指示薬の瓶のラベルを見せてくれた。BTBと書いてある。
「これが一段階目、もう二段階ほど謎が残っているね」
「この色が変化した理由だけじゃないんですか?」
「とりあえずその問いを考えてみよう。この色の変化はどうして起きたのか」
BTB溶液ときたら、理由は明快だ。
「最初のフラスコがアルカリ性に、次のフラスコが酸性に変化したからですよね」
「合ってるけど、あともう一声かな。一つの試薬を加熱して出てきた気体からどうして二つの色が生まれたのか」
「そうですね……水を通すとアルカリ性から酸性に変化する物質、というのは考えにくいし」
恵美は少しうつむいて考え始めた。アルカリ性の物質が酸性に変化した可能性は?気体を水に溶かした時の液性は一つに決まっているから、水に通したからといって変わるものではないと考えるべきだけれど……いや、水の中に別の物質が入っていてそれと反応して気体が発生して、ということはあるかもしれない。
「最初から実験の準備を見てましたけど、はじめにフラスコに入れたのは普通の水道水ですよね」
「そうそう、そこは単なる水だと思っていいよ」
水に溶けていた何かと反応したという線はつぶせる。つまり、アルカリ性の物質が酸性に変化したという仮説は放棄してよくて、そうすると……
「最初から二種類の気体が発生してた、ってことでいいですか?」
「おっ、その通りだね。じゃあなんの気体かわかるかな」
「そうですね……刺激臭がするので多分片方はアンモニアなんじゃないかと思います。ひとつめのフラスコが青色に変わっているわけですし。もう一つは……酸性の気体ってたくさんありませんか?二酸化炭素と、塩化水素もそうですし、塩素ガスもそうだし……」
「そんなに危険なガスは発生させられないよ」
片岡先輩が何かを仄めかした。恵美はその示唆をきちんと受け取って答えた。
「あ、でもアンモニア以外の匂いがしなかったということは、無色無臭の気体だから二酸化炭素しかないんですね」
「そうだね。正解は二酸化炭素。つまりアンモニアと二酸化炭素の混合気体が試験管から発生したんだよね」
部長がそういうと、試薬を持ってラベルを見せてくれた。炭酸水素アンモニウムとある。
「炭酸水素アンモニウムは加熱分解して二酸化炭素とアンモニアを発生する。名前から類推がつくね」
多分、名前からして化学式はNH4HCO3なのだろう。炭酸イオンとアンモニウムイオンがくっついているから、加熱して分解し、水と二酸化炭素とアンモニアが生まれる。
「では最後の問い。なぜ二つのフラスコは、同じ色ではなく別の色になったのか」
「えっと、どういう意味ですか?」
「混合気体がフラスコに入ったのだから、アンモニアのアルカリ性と二酸化炭素の酸性が混ざった色のフラスコが二つできてもおかしくないでしょ?つまり二つのフラスコは同じpHになって同じ色になってもよかった。それなのに、なんで二つのフラスコは別の色になったのか、考えてみて」
なるほど、そういうことか。でもこれの答えはすぐにでる。
「アンモニアは非常に水に溶けやすいですが、二酸化炭素はアンモニアほどじゃないから、ですよね」
「素晴らしい。そうそう、最初のフラスコには発生したアンモニアが全て溶けて、二つ目のフラスコには溶け残った二酸化炭素が溶けるからこうなる」
よく考えられた実験だと思った。高校入試にちょうどいいレベルかもしれない。ただ、この人たちは明日ここでまた新入生に対して高校入試をやるつもりなのだろうか。そうなのだとしたら、相当理科が好きな人以外は嫌がるかもしれない。恵美は少し不安になった。
「これ、明日も実験してから新入生に同じ質問するんですか?」
「ん?そのつもりだったけど、もしかして簡単すぎたかな」
「この高校の一年生なら普通に解けるレベルの問題だと思いますけど、単純にもう高校入試の口頭試問みたいなのは受けたくないですよ」
ああ……と二人が何となく納得してため息を漏らした。 「これやめます?」
片岡先輩が部長に聞いてみる。
「実験自体はやろう、佐々木さんも面白かったでしょ?」
「実験自体は面白かったですよ。もちろん、面白い実験だねで終わらせたくない気持ちはわかるんですが、口頭試問っぽくならない工夫みたいなのは要るんじゃないでしょうか」
「なるほどね。また秀作と話し合っておくよ」
口頭試問自体はやるつもりらしい。恵美にはそれが敬遠されないよう祈ることしかできなかった。 「とりあえず、片付けましょう」
片岡先輩が腕時計を見てから撤収を提案する。 「そうだな。僕は試薬を戻してくるから、二人で皿洗いしといて」
そういうと、部長は先ほども見せたニッとした含みのある顔を見せて、それじゃ、といって薬品倉庫に戻っていった。

フラスコと試験管を一緒に洗いながら、恵美は片岡先輩と久しぶりに二人で話す機会を得た。
「元気にしてましたか?」
「割と元気にしてたよ。受験勉強は厳しいものがあるけどね」
「まだ二年生になったばかりなのに始めてるんですか。先輩、受験なんて余裕なんじゃないんですか?」
恵美がそういうと片岡がまた困ったような笑顔を見せた。その表情にはどこか懐かしさがあった。確か似たようなやりとりを中学時代にもしたことがあった。
「手広くやらないといけないし、高校範囲だって突き詰めるとちゃんと理解してなかったりするし、余裕ではないよ。ちゃんと勉強してる」
「じゃあ大学の勉強は封印ですか?」
「それはないかなー。結局数学も物理も化学もちゃんと理解しようとしたら高校範囲からはみ出るからね。ここに来たら議論する相手もいるし」
別に片岡のことを特別視している訳ではない、と恵美自身では思っていたのだが、先輩ほどの人と議論が成立するほどに知識と頭脳がある人がこの部活に集まっている、という事実には驚きを隠せなかった。自分がそうありたいと思っているからなおさら。
「片岡先輩と議論できる人なんているんですね」
「いやいや、普通にいるから。部長もああ見えて賢いし、あと大槻さんっていう二年がいてすごく頭が切れる」
薬品棚から戻ってきた賢い部長から、ああ見えては余計だぞーという茶々が入った。
「賢い人多いんですね。私がいたら足引っ張っちゃいますかね」
「いやいや……佐々木さん普通に賢いと思うよ。あと、ここは別に頭いいひとしか来てはいけないというルールはないし」
先輩が最後のフラスコを洗い終えると、キュッと蛇口を締めた。
「理学部は来るもの拒まず、去る者追わずの精神でいる。やりたいことをやりたいひとがやりたいようにやる。但し安全に、という条件付きだけど。だから佐々木さんもここに入るつもりがあるなら、好きなときに来て好きなことをしていけばいいよ」
先輩がテーブルの上に腰掛けながら言った。恵美もハンカチで手をふくと、そこに置いてあった椅子に座った。
「そうですね、でもたぶん、毎日来ます。また色々教えてくださいね」
「教えられることなんてあるかなあ」
片岡はまた頭をかいて困った素振りを見せた。そんなに困るようなことなのだろうか、と思ったのだが、ある意味では謙虚さの顕れなのかもしれない。
「ありますよ。たくさん。いつも読んでる本のこと教えてください」
「それは逆だよ。僕自身もわかってないことが書いてあるんだから、自分で考えて理解しないといけないよね」
そういうと恵美は目を閉じて少し首を傾げてから
「じゃあ、また一緒に考えませんか」
と、二人きりで過ごした中学時代の延長を提案した。
少し勇気のいる提案だった。脈打つ音が聞こえた気がした。
「そうだね。誰かと話してるとわかることもあるし」
対して先輩は特に気にも留めていない様子ではあった。でも、とりあえず断ることはしなかった。
「そうですよね!じゃあ、これから一緒に勉強しましょうね!」
もちろんそれを断るような人ではない、というのは分かった上で訊いたのだが、また二人で過ごす時間が与えられることには喜びが隠せなかった。少し声が上ずっているのが自分でもわかる。
「で、お二人さんは中学時代どういう関係だったわけ?」
部長はずっと恵美たちの会話を聞いていたらしい。部長が突っ込んだ質問をしてきた。 「特に何の関係もなかったですよ。いろいろ話はしましたけどね」
「そうですよ。ただの図書委員長と図書当番というだけです」
「なんか怪しいなあ」
「部長本当にこういう話好きですね。掘り返しても本当に何も出ませんけどね」
片岡先輩が笑って受け流す。実際本当に中学時代は何も起きなかったし、自分自身も起こそうとはしていなかった。先輩だってそうだろう。掘り返しても本当に何も出て来ない。単に二人で勉強してただけだ。
でもこれからはどうすればいいんだろう、とふと思う。さっき中学時代みたいに一緒にいることは約束した。それで十分なのだろうか。ううん、いつか同じレベルで議論できるように頑張って、先輩の読んでいる本を一緒に読んで、それから、それから……まあそのままでいいか。そんなことを頭の中でぐるぐると考えた。

「今日は紅茶あるんですか?」
片岡先輩が部長に訊いた。
「ないんじゃないかな。大槻さん今日は来ないって言ってたし」
「紅茶って何ですか?」
片岡先輩に訊いてみる。
「ああ、さっき言った大槻さんって人が紅茶党でさ。この部活、なぜか茶葉とか茶菓子とか揃ってるから17時ちょうどに紅茶を飲んでゆっくり話す時間ってのがあるんだよ。毎日じゃないけどね」
「そうなんですね。私も紅茶好きなので楽しみです。結構ゆるい部活なんですね」
「いや、紅茶の時間は割とガチな議論が起きるから、ゆるゆるとお茶を飲んでのんびりしているわけじゃないんだ」
「議論ですか?あ、さっきの話ですか?」
「そう。大槻さんが来ると物理の話が多いかな。まあ、一度来てみるといいよ。大槻さんは議論好きでね。あ、怖い人じゃないんだよ。物理のことになると熱くなるというか」
なるほど。あなたも化学の話になるとそうですよ?と恵美は言いかけたが、やめた。何かに熱中している人をみるのは好きだ。大槻先輩とも仲良くなれたらいいなと、恵美は素直にそう思った。
「何かに熱くなるっていいことじゃないですか。私は好きですよ」
「大槻さんも喜ぶと思うよ。あの人は人間ができてるから、素人質問しても面倒がらずに答えてくれるし」
「大槻さん、優しい人なんですね」
「優しいというか、まあお嬢様って感じかな。普段は物静かで上品な雰囲気だよ」
と聞いて少し、いやかなり驚いた。大槻さんが女性だったことに。
「えっ……お、お嬢様って存在するんですね。私は見たことないです」
本当は、中学時代に一切女気のなかった片岡が、毎日ここにきて紅茶をすすりながら女性と、それもお嬢様と談笑している姿に違和感を覚えたのだが、そのことはとりあえず黙っておくことにした。
「僕らの住んでる緑中は新興住宅街だからね。青葉台中学の近くは割と高級住宅街じゃない?」
「ああ、青葉台ですか。それはお金持ちかもしれない……」
「まあ、それを鼻にかけるような人じゃないし、会ってみると気さくに話してくれるいい人だよ」
先輩が女性と談笑している姿がどんなものなのか想像が膨らむが、それは一旦やめた。それはそれとして、理学部にはいい人が揃っているようだ。本当に、片岡先輩のことを抜きにしても、面白そうな部活かもしれない。

「おーい、そろそろ閉店ですよー」
また教室奥の扉が開いた。丸眼鏡をかけた中年の男性が顔だけ出して帰宅を促している。先生らしい。そういえば入学式でみたようなきがする。
「あれ、もう新人入ってるの?」
「この子割とやる気っぽいですよ。なんか秀作の後輩らしくって」
「こんにちは、佐々木です」
恵美はとりあえず顧問らしき先生に一礼した。そうすると先生も扉から出てきて挨拶をした。
「ああ、大久保です。ここの顧問。といっても、ほとんど準備室にいて実験とかは任せてるけどね。村上君も片岡君もしっかりしてるし。これからも安全にやってくれよ」
そういうと、片付けが終わっているならそろそろ帰るようにと三人に再度促した。
「そうですね。じゃあ、帰るか」
「あと、換気扇は回しっぱなしにしておいて。さすがにアンモニアが漏れてるとまずい」
大久保先生が真顔のまま異臭を指摘した。三人とも全くそのことに気付かなかったのでハッとした顔をした。部長の言った「俺はもう慣れてしまってて何も感じない」という言葉の意味を、恵美はいま実体験として理解した。